06 命の重さ(3)


「生めよ増やせよ地に満ちよ」
 とは、旧約聖書のことばです。
 神さまは、「種の繁栄」を願ってさまざまな命を誕生させました。
 
 ずいぶんと不思議なことですが、
 ほとんどの生き物には、オスとメスがあります。
 種の繁栄は、このオスとメスが性交渉をもつことで可能になります。
 そんなふうに、私たちはつくられています。
 そして、神さまの願い(種の繁栄)を
 忠実に実行することができるように、
 私たち生き物は、この性交渉を苦痛に感じることはありません。
 いえ、「スケベ!」と軽蔑されそうで、控えめな発言をしました。
「苦痛に感じない」ではありません。
 種の繁栄に必要な性交渉は「心地よい」ものです。
 そんなふうに、私たちはつくられています。
 人も犬も猫も馬も…おそらくすべての生き物たちが、
 同じようにスケベなはずです。

 戦争がありました。
 人と人が傷つけ合い、殺し合う戦争です。
 多くの男たちが、戦場で血を流し、命を失いました。
 結果、どうなったか?
 男たちが死んでしまったことで、
 ヒトのオスとメスのバランスが崩れたのです。
 男の数よりも女の数が多くなった。
 さて、戦争が終わって何年か過ぎた時、
 崩れたはずのバランスは、ちゃんと元の位置です。
 右側に傾いていたやじろべいは、真ん中で安定を保っているのです。
 どうして?
 男の赤ちゃんほうが、女の赤ちゃんよりも多く誕生したからです。
 人間が勝手にはじめた戦争なのに、
 それによって崩れた男と女のバランスなのに、
 人間ではない、何かの力で、バランスは元に戻ったのです。
「種の繁栄」を願う神さまの力でしょうか。

(本当は「神さま」といった表現はやめて、
「自然」に置き換えようとも思ったけど、
 その表現を使うほどには自分に自信がないから、
「神さま」なんて曖昧な表現を使ってます。
 でも、「自然」としたほうが分かりやすいですか?)
 

>朱鷺がこの世界に存在する、という事には必ずなにか理由があります。

 *種が存在することには理由がある…。
 裏返せば、
 *種が滅ぶことにも理由がある…。

>種として存在する責任を果たしてしまった。
>この星に必要な種も移り変わってゆかなくてはならない


 本当に、私の頭の中はパニック状態です。
 今、そんな脳みその状態をここに書き出しているだけです。
 話がとりとめなくなっているのは、そのせいです。

 神さまとか、自然とか、そんな大きなことを考え出すと、
 私はいつもこうなります。

>ヒトが森林を焼き払い、海洋を汚染し、
>生物種を絶滅にまで追いやってしまうのは
>それも、大きな自然界の流れだと考えますか?

 
>ヒトだってこの世界に種として誕生した限りは思うように生きて行けばいい


 動物園や昆虫採集にしたって、
 それを自然の摂理(意志)と捉えるのなら、
 神さまの意志(摂理)と捉えるなら、
 なんら文句を言うべきことじゃない。
 種の存続、なんて問題でもそう。
 どう捉えるかだけのこと…。

 ヒトが海を汚したって、それは自然の摂理(流れ)です。
 だって、自然とは人間が及びもしない大きな力です。
 自然(神さま)が、ヒトに海を汚染することを許しているのです。
 いえ、自然がそのように命令しているのかも知れません。
 戦争だってそうです-自然の摂理なのでしょう。
 戦争が起こるのには理由があります。
 国と国との利益問題とかではありません。
 そんな問題はこじつけです。
 ヒトと云う生物が勝手に付けた理由に過ぎません。
 そうでなく、もっと大きな理由。
 つまり、人口が増えすぎたから、とか、
 もう地球上に、宇宙の中に、人間が必要ないから、とか、
 そんな、自然の摂理の中での理由です。
 神さまの意志による理由です。
 銀行強盗だって、幼児誘拐だって、
 あるいはどこかのスレッドで問題になってた、猫虐待だって、
 神さまの摂理、自然の意志。

 トキを保護するのかどうか?
 このことについて、
「保護する必要はないのではないか?」と言った私は、
 トキが滅ぶことを自然の摂理と捉えているのでしょう。
 動物園の存在に否定的な意見を口にする私は、
 その存在を自然の摂理とは捉えてないからなのでしょう。
 本当の本当なら、
 すべてが神さまの摂理に適ったことであるはずなのに…。
 起こることすべてを受け入れて当然なのに…。

 トキの保護について、
 私は分からないでもないのです。
 あるひとつの種が、人間の横暴(これも自然の摂理ですね)
 によって、絶滅してしまうことは、とても悲しいことです。
 例えば人間の土地開発で、.住む場所を追われて行く動物たち。
 もし、ヒトと云う生物が行動を起こさなかったら、
 種の存続、種の繁栄を続けることができたほかの生物たち。
 考えたら、悔しい思いをします。
 では、それがヒトの取った行動でなかったらどうなのか?
 例えば猿が行動を起こしたことで、
 あるひとつの種が滅んで行く。
 これはどうですか?
(もしかして、そんな行動を取るのはヒトだけですか?)
 ・
 ・
 ・
 もはや私は、力尽きました。
 なにがなんだか??? です。
 
 すべてが神さまの摂理だと、そう思います。
 すべて、何もかも、です。
 地下鉄サリン事件も、私がこんなことを書いてることも、
 昨日の晩飯で食べたハマチの刺身がおいしかったことも、
 すべて、すべて、一切合切すべて…自然の流れです。
 でも、その流れにあらがいたいこともあるのです。

 変なヤツと、そう思われることを承知で、
 もう少しだけ、書きます。

 前回の発言の中で、
 私は「命はひとつ」と、書きました。
 このこと、私は事実として捉えています。
 一部の宗教者のような「信じる」ではありません。
 間違いのないこと、と感じているのです。

 Gさんの命と、私の命は同じです。
 すべての命はひとつです。
 したがって、命の消滅である「死」は存在しません。
 死ぬ、と云うことは、ありえないのです。
 通常私たちが口にする「死」とは、肉体の滅亡と捉えます。
 命の滅亡ではありません。

 あの地下鉄サリンの時に、
「事件で亡くなられた人たちをかわいそうに思わないか?」 
 と、オウム信者の方がインタビューを受けて、
「悲しくない。死は悲しむことではない」
 そう答えていたのを、テレビで見ました。
 私はこれを聞いて、肯きました。
(その通り)
 と、思ったのです。
 でもでもでもでもでもだけども、悲しい。
 死は悲しいことではなくても、
 そんな馬鹿な理由(サリン事件)で、肉体が滅んでしまったことは、
 どうしようもなく悲しい。
 亡くなられた方たちには家族があって、友人もいて、
 いろいろなことを考えれば、悲しくて仕方がない。
 彼らの言っていることは、きっと正しい。
 でも、私は悲しい。悲しくて悔しくてたまらない。

 サリン事件は自然の流れの中でのことです。
 けれど、すべてをそう捉えてしまうことが自然の流れでしょうか?
 自然の流れだと、神さまの摂理だと、
 そう理解するのは、正しいことだと感じています。
 では、私の、そして多くの人たちの悲しい気持ちは、
 どうなのですか? それも自然の摂理でしょう。
 だとしたら、すべてを「自然の流れ」と捉えてしまうことは、
 自然ではありません。

 いや、ちょっと待てよ。
 それも自然なのか?
 いろいろな考えの人がいて、
 例えば死についてどう感じようが、
 それも自然なのか。

 世に起こるすべてのことは自然の流れです。
 でも、それにあらがう意志を持って私たちは暮らしています。
 もちろん、あらがうことも自然の流れです。
 ただ、そのあらがう基準に個体差があります。
 どこまでその流れに身を委ねるのか?
 猫を虐待した子供がいた事実(流れ)に対して、
 なんとも思わないのか?
 それともあらがい、悲しみ、否定するのか?
 このあらがう基準を、私たちは話しているのですね。

 ごめん。
 ここまで書いてきて、ようやくそんなことに気が付いた。
 本当なら、もう一度最初から書き直さなきゃならないけど、
 この場所が「考えをまとめる」ところであると信じ、
 このままで、投稿します。

 最後に、学生の頃に読んだ詩を思い出しました。
 感じてみて下さい。


    宇宙の中のひとつの点

  人は死んでいく
  また生まれ また働いて死んでいく
  やがて自分も死ぬだろう
  なにも力むことはない
  悲しむこともない
  ただここに ぽつんといればいいのだ
              (草野 天平)